現在のクールの作品で聴いたアニソンで、聴いて思ったことや面白いと感じたことなど。
edda「無伴奏」
キックに弦のピッチカートを重ねる配合が良い。
Aメロは、しっかりと間(ま)をとっている旋律に対して、四つ打ちのリズムが打たれている。これは間を計測するためのタイマーとして機能しているようでもある。これがあることによって、(音楽的な意味での)間を間として直感しやすく、また緊張感を生んで、旋律の間に音楽性を持たせる。
全体の構成についていえば、Aメロは、Aメロの中だけで音楽的な”問と答え”を内包した、しっかりとしたかたちを持っている(Aメロだけである種の完結している感がある)。一方、Bメロはそれだけでは問の機能を有するだけで(Bメロは小節数が短い)、Bメロとサビがセットになってはじめて”問と答え”が成る有機的な関係を持つ構成となっている。
そしてその二つの”問と答え”、即ち静的で間と緊張感を持つ”問と答え”(Aメロ)と、動的な、エネルギーが解放されたような”問と答え”(Bメロ+サビ)がよく対照している。
それら自体が一つ上位の”問と答え”(セーブしていたものをリリースするというような)としてあるように、後者(Bメロ+サビ)が前者(Aメロ)に対してよく答えているというように、全体が有機的に構成されている。
上記を踏まえ、全体の構造に対してもう少し別の、動的な見方をするならば、Aメロの、間の音楽性の持つエネルギーが、Bメロの音楽的な問いの部分に特化した短さをカギとして、サビに転化しているような印象を持つこともある。
さて以上書いたようなことは実際のところ、映像と音楽をセットにしたものを視聴した印象ではある。例えば、Aメロで縦にスクロールし、Bメロで横にスクロールし、サビで止め絵から始まってズームアウトしていくといったようなことだけとっても、音楽の印象に与える影響は大きいのではないかと思う。映像は音楽のポイントを押さえて構成されているように思う。
YOASOBI「アイドル」
休符が少なく、音域は広い。
構成に特色があり、歌唱パートは、Aメロ(8)、Bメロ(8)、Cメロ(10)、サビA(8)、サビB(8)の五つのセクションから成る(カッコ内の数字は小節数)。セクションが五つもあることで、矢継ぎ早に旋律が変化していくが、短い単位のフレーズの繰り返しが多用され、この両者が相まって楽曲に疾走感をもたらし、かつ統一性と多様性のバランスが保たれる。またサビBは、Aメロ、Bメロの楽節構造を継承していて、Aメロ、Bメロの再現的機能を、閉めとして持っている。
AメロとBメロは、一小節単位の短いフレーズが(多少変化しつつも)繰り返されたあと敷衍されるという楽節構造を有しているが、繰り返しの回数は一回程度減るものの同様の構造をサビBが継承している。フルver.においても、AメロとBメロが歌われるのは一度きりで、楽曲中繰り返されない。
調関係について
イントロで、クラシックの理論で言うところのナポリの和音が見られるのは、サビとサビ以前の調関係を暗示しているようにも見える。この曲は、G# minorで始まってサビでA minorに転調する。この調関係は、歌詞の内容に見られる「嘘」というキーワードとの関連があるというふうに解釈できるだろう。
素の私は、#を5つも抱えたG# minorな私だけれど、舞台に上がれば、調号ゼロのスッキリとしたA minor。つまり、ピアノなどの鍵盤楽器で考えれば、黒鍵は黒く、白鍵は白く、舞台の上では黒い部分の私は見せない。それで、基本白鍵のみで構成されるA minorへと転調する。それがアイドル。
上記を踏まえると、イントロのI→Np→Iのような和声進行は、真実→嘘→真実というように真実と嘘の間を揺れ動く感じの暗喩と捉えることもできるだろうか。
調関係によってキャラクターを造形するという手法は、面白いと思う。ただ単に概念としての象徴ではなくて、音楽の音として五感に触れる形で、キャラクターのありようが象徴されるところが良い。
フルver.では、終盤、A minorからG# minorへ戻ったあと、サビのタイミングで(A minorを通り越して)B♭ minorへと転調している。即ち、#(シャープ)5つの調から、♭(フラット)5つの調へと転化して、物語を締めくくっている。