マンガの形式
マンガという表現形式の複雑さについて考えてみて、自分の中で少し謎が解けたと思えるようなところを書いてみたいと思う。
マンガという形式を一言で言えば、読み手の認識能力によっておこなわれる、「物体」の表象と「意識」の表象の結合。その結合から生じる時間認識。それらが直感的にスムーズにおこなわれるための形式がマンガの形式ということになるのだろう。
マンガの半分は言葉で出来ている。その言葉が表すものは主に次の二つものに限られる。何らかの存在の「意識」、あるいは「音」。意識も音も、「時間」の観念と密接に関係するもので、或は時間そのものといっても良い。意識が付されることで、絵が時間を纏う。
「意識」と「音」(マンガにおける言葉の在りよう)が時間と密接である点についてもう少し説明をするなら、まず、ひとの意識が時間と深くかかわるものであることは言を俟たない。人は意識のある時にこそ時間を認識するものだから。意識がある、という内観は時間そのものといえる。つぎに音と時間の関係については例えば、静止画という概念は表象し得るけれど、静止音という概念を頭の中で思い浮かべることはできない。音が鳴っているという認識は、時間が流れていることの証左となる。
マンガは、コマが複数あることで継起の概念が表象され得る。それによって絵のみに依るなどして映像の形式をマンガの形式に応用する手法もとられるけれど、基本的な形式としてマンガは、時間軸上に、絵(人物)と意識の表象(言葉)を不断に載せ続けることがベースとなるから、それは一つの制限とも考えられる。
あるいは絵と意識を載せるというマンガの基本形式を、必要に応じて必要な程度、可能な限り上手く休ませることがマンガの構成に調和をもたらすのだろうか、など考えてみるのも面白いように思う。
コマ割りについて
マンガという表現の独自性、物語であっても小説などとは異なる、マンガ独自の表現性とは、絵のあるなしということよりも本質的には、より直接的に(絵に結合された)意識の表象というものを基本的な表現媒体としていることではないかと思う。
そして先述のごとく意識とは時間的なものだが、マンガのコマ割りの不均等さは、マンガが意識の表象を表現媒体としているという先の考えと関連付けられるだろうか。マンガのコマ割りについて主体的な時間と客観的な時間ということを考えてみる。
均等なコマ割りは時間の継起性を表現しやすく、不均等なコマ割りは、均等なコマ割りのような一定した時間の流れは表現されにくい。一定した尺度的な時間の流れを客観的な時間と考えるならば、それが表現されにくい不均等なコマ割りは、客観的ではないところの即ち主体的な時間によりフィットするものであると考えられる。
マンガのコマ割りの不均等さは、主体的な時間(=意識、内観)の在りようを模する形式として機能しているのではないか。主体的な時間を模する表現形式に、意識の表象(これも主体的な時間)が中味となってマンガとなる。このようにマンガの不均等なコマ割りは、マンガが意識の表象を表現媒体としていることと符合するように思われる。